文化や暮らしとの関わり

 大井川は3,000m級の山々が壁をなす南アルプスから発し、深く狭い谷は交通を途絶する、いわゆる「閉塞谷」(浅井治平氏 「大井川とその周辺」)を形づくり、同じ県内にある富士川、天竜川に見られる貫通した谷と異なり川に沿って縦に伸びる道は、つい近年に至るまで開けなかった。また徳川幕府の江戸防衛政策の見地から明治維新によって、その呪縛が解かれるまで、東海道の島田・金谷の限られた区間の人足の肩による以外は一切の架橋・渡船・徒渉さえも許されていなかった。ただ最上流の井川のみは例外として、はね橋(猿橋)が許されていた。

 このような交通環境の中では東海道の宿駅として繁栄した島田・金谷においては東西の文化が常に交錯し、また文人、歌人の滞留などによって残された文化財も多いが、その上下流には、国や県に指定されるような文化財は現時点では稀少である。

 大井川の上流はこのように厳しい交通状況にあったが、春野町から久保尾辻を超えて上長尾へ、静岡から富士城峠越えで小長井・千頭へ、安倍奥から大日峠越えで井川へ、更には転付峠や山伏峠、寸又川奥から甲斐・信濃へといった形で古くから山越えや尾根道は連なっていた。これらの道のなかには大井川沿岸に点在する縄文遺跡を結ぶ線として縄文の道と呼ばれているものもある。したがってこの地への文化の流れや浸透は、かなり古い時代からあったようである。

 今から190年ほど前、島田の人、桑原藤泰が島田から大井川の左岸を上流へ向かって地誌調査の旅をしたときの紀行文「濱つゞら」によれば、孤立した小さな村落にも神社、寺、戸を束ねる長があり、それぞれ似通った民俗文化が受け継がれていることが分かる。

 また、120年前のアーネスト・サトウの日本旅行記で上長尾から井川までの紀行中の感想に「この孤立した集落のどこへ行っても同じ言語が通じ似た文化を持っているのが信じがたい事だ」というような記述がある。これは、東南アジアに駐在したり日本各地を旅した彼の相対的な感想ではあろうが、現実には様々な障壁を乗り越えて流域の文化は繋がっていたようである。

 この文化の流入や伝播について、もう少し触れてみると、史話や伝説に残される戦乱や権力抗争に破れた人達が都や隣国から山を越えてきた落人伝説が各地に存在するが、いま少し現実味帯びたものとなると、井川金山を頂点とする上流流域の金の産出、豊かな森林資源をもとめて他国の人々が、新しい技術や民俗を持ち込んでいる。また山岳兵の勇猛さを買われての出兵、伊勢や秋葉への信仰、高野聖や行商人等々、この細く険しい道を伝って運ばれている。

 一方この交通環境の厳しさが、上流部の神楽、下流部の田遊び、全般の民俗を比較的近代まで原型に近い形で伝えて来ている。しかし明治維新後の交通や産業の発達は大井川流域にも急激な変革をもたらし、茶・パルプ・紡績・電力の開発は鉄道や道路を発達させ、文化の個性や格差も希薄にさせてきた。

 このような中で埋もれ、消えていこうとする地域の特徴ある民俗文化をいかに継承保存させるかが今後の流域に住む人々の課題でもあろう。